あきる野ふるさと工房

軍道紙(ぐんどうがみ)の話 〜あきる野市五日市郷土館「郷土館だより」第27号抜粋〜403

古代の紙-貢納のために生産
 諸々の文化と同じく、紙もまた中国より我が国に伝えられた。その時期は早く3世紀頃とされる。製造技術の伝来はいささか遅れ、公式には推古天皇18年(610)という(日本書紀)。8世紀の奈良正倉院には膨大な紙の資料が残されいるが、すでに高度な技術が開発されていたようである。
平安期、朝廷は直営の紙工場を設け、諸国から貢納される紙原料を使って良質な紙を生産していたという。紙の需要はまず行政記録や写経の用に発し、次第に上流階級の生活の隅々に広がっていった。紙づくりは器用な日本人の性に合うとみえ、古代の末(平安後)には各地ですぐれた特産紙が産出されている。それらはみな荘園の民がつくり貢納品として都へ送られた。あの華やかなお公卿衆の王朝文化は、庶民が寒風をついて作った和紙に負うところが多い。

中世の紙-領主による育成、大幡紙の発生
 
庶民の間から、そのリーダーとして台頭した武家は、権力を握ると公卿文化の後継者となり、紙の需要者となった。彼らは公卿と違い地域に密着しているだけに、地域産業のパトロンとなり各地の紙生産は進展していったようである。当時続々と連立された寺社も有力な紙消費者となった。紙を贈答品とする風習も定着した。
 当地域では大幡(東京都八王子市西寺方町)がこの中世期に有力な紙産地として現れた。「大幡紙」という名が伝えられている。恩方と川口の接点に当たる大幡は山麓地帯で、原料こうぞの生産に適し、湧水が多く、前面に淺川の川原を控えるといった生産適地であった。しかも付近には宝生寺以下有力寺院が多く、武家守護代大石氏や後北条氏の接点(案下城、八王子城)にも接していた。川口と隣接する五日市地方は、この大幡紙生産圏の周辺地域に当たる。一つの紙生産地はその周辺に原料こうぞの供給地をもつことが多いが、そこもまた紙生産をはじめることが多い。おそらく中世の五日市地方は大幡紙の傘下にあって紙生産が行われていたことであろう。近世(江戸時代)初頭の五日市地区で、紙役(かみふねやく:紙の生産に対する税)が課せられていた村が9ヶ村ある(養沢、乙津、戸倉、小中野、深沢、高尾、三内、伊奈、網代)。これらの村々は中世期に紙生産の実績をもつ村である。ところが江戸時代に入ると、このうちの大半が紙づくりを止め、紙船役の免除の嘆願書を残している。これはどうしたことであろうか。一つには北条氏の滅亡による大幡紙の衰微が考えられる。中世の物資流通ルートは領主というパトロンを失うと混乱する。紙づくりを止めた村人は、こうぞを桑に変え、養蚕に転換したかも知れない。当時の山村の副業としては養蚕の方が一般的であった。こうぞも桑も同じ桑科の植物、いずれも貧しい副業という点では紙一重の差もあるまい。ところでこれらの村のうち、養沢川と秋川の落ち合う乙津村だけが自然条件に恵まれたうえ、技術の伝承もしっかりしていたものか、紙漉きの業が残った。そして江戸時代を通じて、庶民生活の向上と産業の発展による紙需要の高まりに遭遇し、その生産を拡げていった。それが軍道紙である。

大幡紙から軍道紙−庶民の紙
 
軍道紙の「軍道」とは乙津村内の集落の名である。文字はあて字で、崩土がなまって「グンドウ」と呼ばれるようになったという説(「五日市町の古道と地名」郷土館発行)がある。確かに地形は山が崩れて養沢川の流域を押し曲げたような所である。この集落には紙漉きを業とするものが多い。この「軍道紙」という呼称が、いつごろ発生したのか判然としないが、おそらく八王子や青梅の荒物屋などに出荷する際の商品名で、比較的新しい(幕末期?)呼び名と推察される。生産者は軍道の他に下流域の落合地区にも多いが、あえて軍道紙と名乗ったのは、ここに有力な生産者が集中していた為であろう。
 江戸末期(文政期)に編さんされた「新編武蔵風土記稿」の乙津村の項に「大畑トイフ紙を産出シテ生産の助トナス」とある。大幡との縁はとうの昔に切れているのに名だけは残ったとみえる。昭和になっても土地っ子の間に大幡紙の名が使われていた。
 名前談義はとにかく、中世の紙と近世の紙とでは用途に天地の差がある。紙は近世に入って、すっかり庶民のものとなった。軍道紙の用途は生産用の蒸した茶の葉を焙るホイロ紙に多用された。この為「端切らず」という別名もある。消費財としては筆簿用より生産用具に適し、障子紙の外、衣類等の包装に使われた。油をしませると唐傘紙や合羽になり、青梅傘用に売られたという。また漆や渋を塗って強化し、篭(かご)や藁(わら)製品にも貼った。五日市郷土館には杉樽の目地に軍道紙を詰めた油樽がある。小説「大菩薩峠」に出てくる怪盗裏宿七兵衛は夜道を疾走して目明しの追跡をかわしたが、軍道紙をチューインガムのように噛んで吐く癖があり捕方はその吐き滓をたどって負ったという。
 軍道紙は、こうぞを原料とする素朴で丈夫な大衆用品である。奉書紙のように儀式張った高級紙とは違って、根っからの庶民紙であった。台所の流しの窓に貼られて北風を防ぎ、真っ黒にすすけても破れないところに特色があった。

明治の軍道紙
 軍道紙の最盛期は幕末から明治にかけてと思われる。軍道の旧家 栗原秀年家に明冶初年に賦課された営業税の調査資料があったので、それに基づき表1、表2を作成した。表1は農外収入の表である。どこの家でも行われていた百姓仕事は現金収入を伴わないので営業とはみなされない。その代わり田畑山林屋敷地に対し、地租が課せられ、その多寡により村内の社会的地位がきまった。村は地主(山持)、自作農、小作農の三階層に大別され、一握りの地主、山持ががさらに土地を集める形成にあった。とにかく山村では農業だけでは食べていけない。その為表1に見るような農間稼ぎを営むわけであるが、乙津村では合計139戸中、88戸(兼業をまとめた正味戸数)が各種営業に従事している。当時の農外収入は商業と手工業であるが、一般に職人衆は小作層の人が多い。乙津村は山村だけに杣職(そましょく 林業労務)が多いが、この表で見る限り彼らの収入は気の毒な程少ない。これに対し紙づくりに従事する家は村内の階層からみると、上中層を多く含む(表2参照)、とくに軍道地区では2軒に1軒が紙づくりに関係し、有力者を網羅している。紙づくりにはこうぞの植付地からはじまって、作業に一定の広さをもつ屋敷地が必要である。また助手としての女手も欠かせない。養蚕農家に似た条件を備えていなければならない。実は紙漉は漉く際に混入するねり(トロロアオイの粘液)の関係で冬の仕事となる。春夏の農耕・養蚕と組合せ、1年を通して稼ぐのに好都合であった。中には紙づくりと糸まゆの仲買を兼ねるものもいた。いずれにせよ冬期の副業として、農閑期を利用できる点が紙づくりをふやした理由の1つであった。
 明冶初期と幕末とでは社会生活の様相に大きな差はみられない。この2つの表は、そのまま江戸末期にに逆のぼらせることができ、当時軍道紙が地場産業として如何に大きな比重を占めていたかを物語っている。

軍道紙のおわり
 ひところ日本全国至るところで生産されていた手漉和紙は明冶後期、洋紙の普及によって劣勢に追い込まれた。手工業が機械工業によって淘汰されるという原則は紙の世界も例外ではない。とくに第一次大戦によって工業化を一段とすすめた大正期以降、日常生活の隅々まで洋風化が進行した。ペン書きや印刷に不適な和紙はここでも需要を失った。軍道紙生産者の中には真白なパルプ洋紙に少しでも近づけようと漂白剤を多用し、紙質を弱める者もでた。田舎娘が流行におくれまいと厚化粧し、素肌の健康美をそこねたようなものであった。
 第二次大戦後、4、5件残った生産者は機械導入によって省力化を計り、こうぞに混ぜものをして増量を図ったりしたが、品質をそこね、かえって評判を落した。かくて悪戦苦闘のすえ次ぎ次ぎに廃業し、最後の生産者 高野源吾氏が家業をたたんだのは昭和39年であった。
 いま大量生産の洋紙にあきたりず、手漉和紙のもつ人肌の温か味に惹かれる者がふえてきた。中でも軍道紙は素朴さが好まれた。だが、熱心なファンが出現したとき、肝心のこれを作る者は消滅していた。

軍道紙の原料づくり
 和紙は、楮(こうぞ)、雁皮(がんぴ)、三椏(みつまた)などの樹皮の繊維をほぐし、これを漉いて作る。軍道紙原料の楮はもっとも強い。工程は、1刈り取り、2蒸し、3皮むき、4表皮(くそかわ)削り、5白皮の川晒し、6煮る(ソーダ灰を入れ約4時間)、7アク抜き(川でゴミを取りながら洗う)、8叩き(ゆっくり長時間) 以上により繊維がほぐれる。これに、ねり(とろろあおいの根をつぶして得た粘液)を混ぜ、水に溶いてようやく漉く段取りになる。紙づくりはすきはじめるまでのお膳立が大変なのである。